日本にて

上海から日本に帰る楽しみに一つは、本を買うことだ。中国でもアマゾンを利用し取り寄せることができるが若干値段が高くなってしまうし、また本は書店に行きパラパラやりながら選別していくことが好きなので日本で買うのが楽しい。

今回の帰省でも自分の興味に従いいろいろな本を買った。その中の一冊に『日本辺境論』著者:内田樹

がある。日本人とは何ものか?日本固有の代替不能の存在理由は何か?日本人としてどのように生きるべきか?といった問題意識に対してどのように向き合うのが良いのかについて書かれており、上海で働く日本人の自分はどうあるべきか道を示唆してくれているようで非常に興味深い本だった。


上海で暮らし始めてから日本で暮らしていたときより、日本って?日本人って?といった問題意識を持つようになっている。(問題意識を持てるようになった具体的理由は以下過去の所感を参照)


2007年5月ごろ所感:中国で仕事ができるように中国語習得を目指すものの、中国語をネイティブで話す自分と同じ20代の中国人は山ほどいる。そんな中国で日本人の自分はどういう立ち位置でいるべきだろう?自分の存在理由を示すには語学+アルファーの何かが必要ではないか。

2008年2月ごろ所感:上海で仕事をするには労働ビザ(Zビザ)が必要だ(一部長期滞在ビザ(Fビザ)で働く方法もあるが)。それが近年(2008年ごろから)取得しにくくなっている。2年以上の日本での勤務経験、専門技術を持っていること、現地法人での役職などが取得条件として必要だそうで、「中国の経済発展に貢献できるであろう人」ではないと労働ビザを取得しにくく、「ただ中国にいたい人」は中国に居づらくなっているようだ。

2008年9月ごろ所感:2008年、杭州の浙江衛生という国営テレビ局の『浙江文化地理』という仏教、茶道、書道がいかにして中国から日本に伝わったかをテーマにしたテレビ番組制作の日本取材の通訳と案内をする機会があり、長崎、佐賀、福岡、大阪、京都、静岡、東京を旅し、中国から伝来してきた多くの文化が日本に影響を与えていることを知れた。しかし中国から伝わった文化は歴史と共に日本風にアレンジされているようだ。


上のような上海生活を通じてたまたま手にとった本がある。


『奉教人の死 煙草の悪魔』著者:芥川龍之介

芥川龍之介の切支丹(キリシタン)物13篇を選び収めた一冊。その一篇に『神々の微笑』という話がある。キリスト教宣教師が布教活動のために来日するも、日本の風土に触れる中でキリスト教では覆い尽くせない日本独自の力、宗教観のような違和感を感じることを描き、海外から日本に渡来する強力な文化が時の侵食を受け日本の風土に同化し、日本的変形を遂げることを主題とする思想的対話小説。(ウェブ上でも読めます)


その中にこんなシーンがある。
『「それは何人でも帰依するでしょう。ただ帰依したという事だけならば、この国の土人は大部分悉達多(シアルタ)の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。「なるほど造り変える力ですか? しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。どこの国でも、――たとえば希臘ギリシャの神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、――」〜。「大いなるパンは死にました。いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」』P101


「我々(日本)の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」


このフレーズから、「なるほど!」と、日本って?日本人って?という問題意識に対する答えの一部を見つけられたような気がした。そう言われてみると、自動車、食品、アルコール飲料、衣服、仏教、茶道、医学、科学、芸術、音楽、などなど日本のこれまでを支えてきた今自分の身の回りにある日本のものの多くは元々は外来のものだけど日本風になって価値を高めて今に至っているものだ。


『造り変える力』は日本の強みを知るのに大切なテーマかもしれない。だとしたら何かを造り変える長所を持った国に生まれた一個人として、何かを造り変えられる人になることが自分の強みを磨くことにつながるのではないか。そんなことを思った。


『日本辺境論』はその考えを後押ししてくれ、さらに深く考えることができる内容だった。以下本文中で印象に残ったフレーズを抜粋する。


『日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなく劣っているという意識である。』 P22

『世界の変化に対応する変わりに身の早さ自体が『伝統』化しているのです』 P26

『日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。』 P89

『狭隘(きょうあい)で資源に貧しいこの極東の島国が大国強国に伍して生き延びるためには、「学ぶ」力を最大化する以外になかった。「学ぶ」力こそは日本の最大の国力でした。ほとんどそれだけが私たちの国を支えてきた。ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来がないと私は思います。現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失。つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています。』 P199


世界中に電波を張り巡らせ、既に存在し、自分がすごい!と思うものを見つける。そしてそれを徹底的に勉強し、自分風にアレンジしていく。0から1を作るのではなく、1〜9から10もしくは10以上を創る、こんな姿勢の繰り返しが日本人の自分には必要なのかもしれない。日本で手にした『日本辺境論』と過去上海で手にした『神々の微笑』という二冊が繋がり『日本とは?』を考える日本滞在だった。




編集後記・・・
以上更新遅くなってしまいました。ぞーたんから「日本にて」というテーマをもらい、日本で『日本辺境論』を見つけ、これを読むと何かブログのネタになることがあるかな。と思っていたものの、『日本辺境論』の難解さに四苦八苦、ブログにまとめるのに四苦八苦。。まだまだ文章を書く練習をしていかないといけないなと反省。上海へ到着後、その晩はちんむーとぞーたんとちんむーの友人のインドネシア人華僑を招き食事をし、その後ぞーたん宅へ遊びに行く。ふと部屋の片隅に置いてある本を見ると『日本辺境論』。お、ぞーたんも!身近な同世代と、あの本読んだ?あの本どう思った?といった議論ができるのはうれしいことですね。



それではバトンタッチ、
ちょっと順番を変えてぞーたんへ。
『冬季オリンピック』でよろしく!