ぐるぐる旅する

HSKも終了したので、ようやく学校に行かない日を作れた。
この1ヶ月は寝ても醒めても試験が頭にあって嫌な感じでした。
"試される"のって不必要に緊張するので嫌いである。

上海は春の雨。南風の雨は半年振りの懐かしい匂いがする。
ゆっくり起きて、スタバでコーヒーを買って、ずるずるとすすりながらBlogに取り組む。


さて、旅することについて。
日本人は行ったり来たりしながら円を書いていく旅をするのが向いていると思う。
大学生が飛行機に飛び乗って自分探しの旅に出たり、OLがワーホリと称してオーストラリアに旅立つのが大抵失敗する理由は日本人のDNAにそういう『一直線な旅』がインプットされていないからである。


古来、旅とは二つの目的があった。一つは物質を求める旅である。侵略とも言う。
もう一つは物質に満たされた後に来る精神の旅である。巡礼とも言う。


物質を求める旅が一番得意なのが、イギリスを出発したアメリカ人と呼ばれる人達である。彼らはゴールドラッシュで西海岸につき、ハワイを経て日本に到着し、韓国を経てついに中東までたどり着いた。(やり残したと思い出して、今は中国に戻ってきている)そういう旅に出てもう250年も経つ。ご苦労様。


日本人はそういう"遠征"が苦手である。
というよりも出来ない。『晴耕雨読』という言葉の通り、晴れたら畑を耕さないといけない。遠足に出かけると食物が枯れちゃうのである。四季豊かな日本においては、侵略なんかしなくても毎日畑に出ていれば、それなりの生活が出来た。鎌倉時代には二毛作まで考えついた。

だから、出かけたらとにかくさっさと帰ってこなきゃいけないのである。欧米的な2〜3週間の休みが日本人に合わないのもこれが理由であろう。僕達のご先祖様たちはそんなことやったことないのである。



精神の旅を考える。
キリスト教・ユダヤ教・イスラム教・仏教(チベット・インド)には全て"聖地"が存在する。一度は訪れようと旅に出る。一神教では"神"がプログラムから実行まで全てを垂直統合で行ったことになっている。従って礼拝を行うのは彼の地に行くことで達成される。巡礼を行った人達が戻った村で特別な価値を持つことはない。それはあくまでご本人の体験であって、体験してない人と共有できるものではないからである。


ところが日本は違う。それぞれの神様や精霊が各役割を持って一緒に世界を作ったことになっている。なので礼拝を行うときは大変である。四国八十八箇所周りとか気が遠くなるよな作業が必要となる。一般の農民には到底無理な要求なので"出家"したお坊さんが庶民に代わってそれを行う。終わったら町に戻ってきてその"ご高話"を聞かせるのである。『オラ達の代わりに行って来て頂いて有難う』ということである。ここにもまた”行ったり来たり"という運動が発生する。



さて言いたいこと。
冒頭通り、『旅をするときに、自分の住処を中心とした行ったり来たりを繰り返しながら円を描く事をベースにしてみたらいかが?』ということである。片道切符とか長旅は我々には向いてない。(だってほら、桃太郎も浦島太郎も目的が達成して帰ったところまで話が載っている。オズの魔法使いとかって行ったきりじゃない?)少し時間があるときに、近くのお寺に遊びにいくくらいが丁度いいのではないか、なんて思うのである。もし何かを捨ててまで長旅に出るならば、どうかその話を持ち帰って共有することを考えて出発して欲しい。きっとその旅は成功するでしょう。我々の文化は帰りを待って話を聞くこと(共有すること)に慣れている。


帰るまでが遠足。 
意外に深い先生の言うことだったのでした。



>ちんむー先生
今週末、地図と自慢のデジカメを持ってまだ見ていない上海に旅立って下さい。
お茶を飲みながら帰りを待っています。
お題 『僕が歩いた上海』


by ぞーたん